本記事は「タイ企業の日本進出」シリーズ全6回の最終回です。第1回で進出形態、第2回で外為法、第3回で会社設立、第4回で経営管理ビザ、第5回で税務を扱ってきました。最終回となる本記事は、日本人スタッフを採用してオペレーションを回す段階で必ず直面する「日本側の労務」について、タイ労働保護法との対比を交えながら整理します。
【重要な注意】 本記事は2026年4月時点の公開情報をもとにした制度の全体像ですので、最新情報は、必ず関係省庁等にご確認ください。
最終回で扱う論点の俯瞰
タイ企業の日本子会社が運営フェーズで直面する労務論点は、大きく次の8層に分かれます。
- 日本の労働法体系(労基法・労契法・最賃法・社保法等)の基本構造とタイ労働保護法との比較
- 雇用契約と労働条件明示義務(労基法15条)
- 就業規則の作成・届出義務(労基法89条)
- 法定労働時間と36協定・時間外労働の上限規制
- 賃金・割増賃金・最低賃金(2025年10月改定値)
- 社会保険・労働保険(健保・厚年・雇保・労災)の4制度
- 解雇権濫用法理・整理解雇・雇止め法理・無期転換ルールという日本特有の雇用安定法理
- 同一労働同一賃金、育児介護休業法2025年改正、ハラスメント防止、フリーランス保護法等の近時改正
1. 日本の労働法の基本構造
日本の労働法は、最低基準を定める労働基準法(以下「労基法」)、労働契約の通則を定める労働契約法(以下「労契法」)、賃金の最低額を定める最低賃金法、そして社会保険・労働保険の各法を中心に組み立てられています。労基法は最低基準法であり(労基法13条)、労使が合意していてもこれを下回る労働条件は無効となり、労基法の基準に置き換えられます。
表1:日本の主要な労働関連法令
| 領域 | 主要法令 |
|---|---|
| 労働条件最低基準 | 労働基準法 |
| 労働契約の通則 | 労働契約法 |
| 賃金 | 最低賃金法・賃金の支払の確保等に関する法律 |
| 安全衛生 | 労働安全衛生法 |
| 雇用差別禁止 | 男女雇用機会均等法 |
| 短時間・有期雇用 | パートタイム・有期雇用労働法 |
| 派遣 | 労働者派遣法 |
| 育児・介護 | 育児介護休業法 |
| 社会保険 | 健康保険法・厚生年金保険法 |
| 労働保険 | 雇用保険法・労働者災害補償保険法 |
| ハラスメント | 労働施策総合推進法・男女雇用機会均等法 |
| フリーランス | 特定受託事業者保護法(2024年11月施行) |
| 高齢者・障害者 | 高年齢者雇用安定法・障害者雇用促進法 |
タイの労働法はLabour Protection Act B.E. 2541(労働保護法)とSocial Security Act B.E. 2533(社会保障法)が中核で、日本ほど多数の個別法に分かれていない構造です。タイで「労保法に書いてあれば足りる」という発想で人事制度を設計すると、日本では複数の個別法に抵触するリスクがあります。
2. 雇用契約と労働条件明示(労基法15条)
労基法15条は、労働契約締結時に賃金・労働時間等の主要な労働条件を書面(または労働者が希望すれば電子的方法)で明示することを使用者に義務づけています。2024年4月からは、有期雇用契約について次の3項目の明示義務が追加されました。
- 更新上限の有無と内容
- 無期転換申込機会
- 無期転換後の労働条件
雇用契約書はタイ語・英語・日本語のいずれの言語でも有効ですが、紛争時の法的判断は日本語で行われるため、実務では日本語版を原本としつつ、タイ人駐在員向けに英語またはタイ語の対訳を添えるのが一般的です。
3. 就業規則の作成・届出義務(労基法89条)
常時10人以上の労働者を使用する事業場は、就業規則を作成し、所轄の労働基準監督署に届け出る義務があります(労基法89条)。届出に当たっては、労働者代表(過半数組合または過半数代表者)の意見書を添付する必要があり(同90条)、作成・変更後は労働者に周知することも義務づけられています(同106条)。
労基法89条の必要的記載事項は、労働時間・賃金・退職に関する事項を中心とし、退職金・賞与・安全衛生・災害補償・表彰・制裁等についても、定めを置く場合には記載が必要です。
タイ労働保護法108条にも従業員10人以上で就業規則を作成する義務があり、構造は類似します。ただし日本では、就業規則は労契法7条に基づき労働契約の内容を規律する効力を持ち、合理性のない不利益変更は労契法10条により無効となるなど、契約規律としての位置づけが強い点に違いがあります。
4. 法定労働時間と36協定・時間外労働の上限規制
4-1 法定労働時間と休憩・休日
労基法32条は法定労働時間を週40時間・1日8時間と定めています。労働時間が6時間を超える場合は45分以上、8時間を超える場合は60分以上の休憩を、勤務時間の途中に与える必要があります(同34条)。休日は毎週少なくとも1日、または4週間で4日以上です(同35条)。
タイ労働保護法は週48時間が原則であり(業種により異なる)、日本のほうが週8時間ぶん短いことになります。タイでは2026年4月時点で週40時間制法案の審議が進んでいますが、現行法上は依然として週48時間が原則です。
4-2 36協定と時間外労働の上限規制
法定労働時間を超えて労働させ、または法定休日に労働させるためには、労基法36条に基づき労使協定(いわゆる36協定)を締結し、所轄の労働基準監督署に届け出る必要があります。2019年4月(中小企業は2020年4月)から、罰則付きの上限規制が導入されました。
表2:時間外労働の上限規制
| 区分 | 上限 |
|---|---|
| 原則 | 月45時間・年360時間 |
| 特別条項適用時 | 年720時間以内、複数月平均80時間以内、単月100時間未満(原則を超える月は年6回まで) |
| 建設業・自動車運転業務・医師 | 2024年4月から完全適用(業種別の特例あり) |
特別条項を適用するには通常予見できない業務量の大幅な増加等の事由が必要であり、抽象的な繁忙期対応では認められません。
5. 賃金・割増賃金・最低賃金
5-1 賃金支払の5原則(労基法24条)
賃金は、通貨で、直接労働者に、全額を、毎月1回以上、一定の期日に支払わなければなりません(労基法24条)。給与振込は労働者の同意を得たうえで行います。賃金請求権の消滅時効は、2020年改正により当分の間3年(将来5年)とされています(労基法115条)。
5-2 割増賃金率(労基法37条)
表3:割増賃金率
| 種別 | 割増率 |
|---|---|
| 時間外労働 | 25%以上 |
| 深夜労働(22時〜翌5時) | 25%以上 |
| 休日労働 | 35%以上 |
| 月60時間を超える時間外労働 | 50%以上(中小企業も2023年4月から適用) |
時間外労働かつ深夜労働、休日労働かつ深夜労働等の重複ケースは、それぞれの割増率を加算します。
5-3 地域別最低賃金(最賃法・毎年10月改定)
地域別最低賃金は都道府県ごとに毎年10月に改定されます。2025年10月改定では全国加重平均が1,121円(前年から66円増)となり、目安制度発足以降で過去最大の引上げとなりました。東京都の地域別最低賃金は時間額1,226円(2025年10月3日発効)です。他の都道府県の最新額は、各都道府県労働局または厚生労働省「地域別最低賃金 全国一覧」でご確認ください。
タイにも県別の最低賃金がありますが、日本の地域別最低賃金は罰則付きの強行法規で、たとえ労使が合意していても最低賃金を下回る賃金は無効となり、最低賃金額に置き換えられる点に注意が必要です。
上記の最低賃金額は2026年4月時点の値です。次回改定は2026年10月の予定です。最新の額は各都道府県労働局でご確認ください。
6. 年次有給休暇(労基法39条)
労基法39条は、雇入れの日から6か月継続勤務し、全労働日の8割以上出勤した労働者に対して10労働日の年次有給休暇を付与することを義務づけています。勤続年数に応じて付与日数は増え、最大で20労働日となります。年10日以上の有給休暇が付与される労働者については、使用者が時季を指定して年5日以上を取得させる義務があります(時季指定義務、2019年4月施行)。
タイ労働保護法30条の年次有給休暇は1年勤務後に6労働日であり、日本のほうが付与日数も時季指定義務も手厚くなっています。タイ親会社の人事ルールをそのまま日本子会社に適用すると、有給日数不足により違法となる典型例です。
7. 社会保険・労働保険の4制度
法人事業所は、健康保険・厚生年金保険・雇用保険・労働者災害補償保険の4制度に強制的に適用されます。
表4:4制度の概観
| 制度 | 根拠法 | 適用 | 負担構造 | 主な窓口 |
|---|---|---|---|---|
| 健康保険 | 健康保険法 | 法人事業所は強制適用 | 労使折半 | 全国健康保険協会(協会けんぽ)等 |
| 厚生年金保険 | 厚生年金保険法 | 同上 | 労使折半(料率は2017年9月以降18.3%固定) | 日本年金機構 |
| 雇用保険 | 雇用保険法 | 労働者を使用する事業 | 労使(事業区分別、毎年度改定) | ハローワーク |
| 労災保険 | 労働者災害補償保険法 | 同上 | 事業主全額負担(業種別、3年ごとに改定) | 労働基準監督署 |
健康保険料率は協会けんぽの場合、都道府県別に毎年3月に改定されます。40歳以上65歳未満の被保険者は介護保険料が健保料に上乗せされます。標準報酬月額は、原則として4・5・6月の報酬実績から定時決定され、固定的賃金が大きく変動した場合に随時改定されます。
タイの社会保障法は被保険者・事業主・政府の3者拠出構造を採用しており、日本の労使折半とは負担構造が根本的に異なります。タイ感覚で「労使政府で薄く分担」と考えると、日本では労使のみで実質的な負担額が想定より大きくなる点に注意が必要です。
各制度の最新料率は2026年4月時点の協会けんぽ・日本年金機構・厚生労働省の公表値を必ずご確認ください。
8. 解雇規制 — 日本固有の最重要論点
タイ企業のオーナー・経営者にとって最も理解が難しいのが、日本の解雇規制です。
労契法16条は「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」と定めています(解雇権濫用法理。日本食塩製造事件・最判昭和50年4月25日でも確認された規範)。
経営上の理由による解雇(整理解雇)については、判例上、次の4要素(4要件と呼ばれます)が総合的に判断されます。
- 人員削減の必要性
- 解雇回避努力義務の履行
- 被解雇者選定の合理性
- 手続の妥当性(労働者・労働組合への説明・協議)
このほか、労基法20条により30日前の解雇予告または平均賃金30日分以上の予告手当の支払が必要で、業務上災害療養期間中・産前産後休業期間中とその後30日間は解雇が制限されます(同19条)。
表5:日本とタイの解雇規制の根本的な違い
| 観点 | 日本 | タイ |
|---|---|---|
| 解雇の自由 | 客観的合理性・社会通念上の相当性を欠く解雇は無効 | 退職金(severance pay)の支払と引換えに、原則として解雇可能 |
| 退職金 | 法定の退職金制度はなし(任意) | 勤続年数別の法定severance pay(最大400日分賃金) |
| 解雇予告 | 30日前予告または平均賃金30日分以上 | 1賃金期間以上前の予告 |
タイの感覚で「退職金さえ払えば辞めさせられる」と考えると、日本では解雇が無効とされて従業員地位確認・バックペイ(解雇期間中の賃金相当額)支払の判決を受けるリスクがあります。
9. 有期雇用と無期転換ルール・雇止め法理
労契法18条は、有期労働契約が反復更新されて通算契約期間が5年を超えた場合、労働者からの申込みにより無期労働契約に転換すると定めています(無期転換ルール、2013年4月施行)。契約間に6か月以上の空白期間(クーリング期間)があれば通算がリセットされます。
労契法19条は雇止め法理を定め、有期契約が反復更新されて実質的に無期契約と変わらない状態にあるとき(実質無期化型/東芝柳町工場事件・最判昭和49年7月22日)、または契約更新への合理的期待がある場合(合理的期待型/日立メディコ事件・最判昭和61年12月4日)には、解雇権濫用法理を類推して雇止めの効力を判断します。
2024年4月からは、有期雇用契約締結時に更新上限の有無・無期転換申込機会・無期転換後の労働条件を明示する義務が追加されました(労基法15条)。
10. 同一労働同一賃金(パート有期法)
パートタイム・有期雇用労働法8条は、短時間・有期雇用労働者と通常の労働者との間で、不合理な待遇差を設けることを禁じています(均衡待遇)。同9条は、職務内容・職務内容と配置の変更範囲がいずれも通常の労働者と同一の短時間・有期雇用労働者については、差別的取扱いを禁じています(均等待遇)。
待遇差の合理性は、基本給・賞与・諸手当・退職金・福利厚生等の項目ごとに、その性質・目的に照らして個別に判断されます(大阪医科薬科大学事件・最判令和2年10月13日、メトロコマース事件・同日判決等)。
11. 近時改正の動向(2024〜2026年)
表6:押さえておくべき近時改正
| 改正 | 施行 | 概要 |
|---|---|---|
| 36協定上限規制の完全適用 | 2024年4月 | 建設業・自動車運転業務・医師にも完全適用 |
| 特定受託事業者保護法(フリーランス保護法) | 2024年11月1日 | 書面交付義務、原則60日以内の報酬支払、各種ハラスメント防止 |
| 育児介護休業法改正(第1段階) | 2025年4月 | 子の看護等休暇への拡充、育児期テレワーク努力義務、介護離職防止のための個別周知・意向確認 |
| 育児介護休業法改正(第2段階) | 2025年10月 | 男性育休促進、3歳〜小学校就学前の柔軟な働き方選択措置 |
| 障害者法定雇用率の引上げ | 2026年7月 | 民間企業の法定雇用率を2.5%から2.7%へ |
このほか、労働施策総合推進法に基づくパワーハラスメント防止措置義務は、2022年4月から中小企業にも適用されており、男女雇用機会均等法のセクシュアルハラスメント・マタニティハラスメント防止措置義務、近年指針が整備されているカスタマーハラスメント対策も含め、ハラスメント全般について体制整備が求められています。
12. タイ労働保護法と決定的に違う10論点
表7:タイ労働保護法と日本労働法の決定的相違
| # | 論点 | 日本 | タイ |
|---|---|---|---|
| 1 | 解雇規制 | 解雇権濫用法理(原則無効) | severance pay支払で原則解雇可能 |
| 2 | 退職金 | 法定なし(任意制度) | 法定severance pay(最大400日分) |
| 3 | 法定労働時間 | 週40時間 | 週48時間原則(週40時間制法案進行中) |
| 4 | 割増賃金率 | 時間外25%・休日35%・月60時間超50% | 時間外1.5倍・休日3倍などの独自体系 |
| 5 | 就業規則 | 10人以上で労基署届出義務 | 10人以上で作成義務 |
| 6 | 年次有給休暇 | 6か月後10日(最大20日)+時季指定義務年5日 | 1年後6日 |
| 7 | 社会保険拠出 | 労使折半 | 労使政府の3者拠出 |
| 8 | 無期転換ルール | 労契法18条 通算5年で無期転換 | 同等の規定なし |
| 9 | 同一労働同一賃金 | パート有期法8・9条で詳細規律 | 個別規定の積み重ね |
| 10 | 賃金請求権の時効 | 当分の間3年(将来5年) | 労保法193条で異なる体系 |
13. シリーズ全体の総括
最後に、シリーズ全6回を進出フェーズ別に整理します。
表8:進出フェーズ別の論点早見表
| フェーズ | 回 | 主な論点 |
|---|---|---|
| 意思決定 | 第1回 | 進出形態(現地法人/支店/駐在員事務所/合弁) |
| 規制対応 | 第2回 | 対内直接投資規制と外為法の事前届出 |
| 法人設立 | 第3回 | 定款・資本金・登記・銀行口座・税務署届出 |
| 人材配置 | 第4回 | 経営管理ビザ(2025年10月改正対応) |
| 運営税務 | 第5回 | 法人税・消費税・日タイ租税条約 |
| 組織運営 | 第6回(本記事) | 雇用契約・就業規則・36協定・社会保険・解雇 |
各論点は相互に関連しており、進出計画の段階から横断的に検討することで、後戻りや想定外のコスト発生を避けられます。たとえば、第1回で支店形態を選んだ場合は第5回のPE課税が論点となり、第3回で資本金を3,000万円以上に設計した場合は第4回の経営管理ビザの新要件と整合し、第6回の社会保険適用にもつながります。
シリーズ完結のご挨拶
全6回にわたる「タイ企業の日本進出」シリーズを最終回までお読みいただき、ありがとうございました。日本進出は、進出形態の選択から実際のオペレーションまでに多岐にわたる論点が交錯する大きなプロジェクトです。本シリーズが、タイ企業の経営者・実務担当者の方々が全体像を把握し、専門家への相談を効率的に進める際の地図となれば幸いです。
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本記事は2026年4月時点の公開情報に基づく一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法的・労務的助言を構成するものではありません。労働基準法・労働契約法・最低賃金法・男女雇用機会均等法・パートタイム・有期雇用労働法・労働者派遣法・育児介護休業法・労働安全衛生法・雇用保険法・労働者災害補償保険法・健康保険法・厚生年金保険法・特定受託事業者保護法・労働施策総合推進法・各種告示・通達・判例は頻繁に改正・追加されます。本記事に記載した料率・最低賃金額・上限・期間等は記事執筆時点の公開情報に基づくものであり、最新の数値は厚生労働省・各都道府県労働局・日本年金機構・全国健康保険協会(協会けんぽ)の公表情報および労働基準監督署・弁護士の確認をお願いいたします。具体的な労務判断・解雇判断・就業規則改定判断は必ず専門家にご相談ください。当事務所ではJTJB International Lawyersのタイ人弁護士および弁護士法人戸野・田並・小佐田法律事務所の日本法弁護士が連携して対応いたします。