[2025年12月 追記] 本記事は2025年9月時点(施行前)の改正議論をまとめたものです。その後、労働者保護法(第9号)は2025年12月7日に施行されました。産休120日・配偶者休暇15日など施行済みの内容はこちらの記事をご覧ください。
この記事のポイント
- タイの労働者保護法(LPA)は産休98日・法定育児休業なしという現行制度から大幅改正の議論が進んでいる
- 産休の最大180日への延長・男性育休の新設・福祉基金の強化が主な論点
- 日系企業には人件費・就業規則・社会保険手続の三面で実務対応が求められる見込み
はじめに
「タイはまだ産休が短くて助かる」「男性社員の育休を心配しなくていい」——タイ進出の日系企業の担当者からこうした声を聞くことがあります。しかし、その前提が近い将来変わるかもしれません。
タイ政府は現在、**労働者保護法(Labor Protection Act / LPA、พระราชบัญญัติคุ้มครองแรงงาน)**の大幅改正を検討しています。少子化対策という国内事情に加え、ILO(国際労働機関)の基準充足やOECD加盟審査における労働条件の評価が改正を後押ししています。本記事では、改正の方向性と日系企業への実務的な影響を整理します。
1. 改正の背景 — なぜ今、労働法が動くのか
タイの少子化問題と政策的要請
タイの合計特殊出生率は近年1.3前後で推移しており、人口置換水準(2.1)を大幅に下回っています。政府は「少子化の歯止め」を政策的優先課題とし、出産・育児支援の充実を官民に求めています。労働者保護法の改正は、その制度的な裏付けとなる位置づけです。
ILO基準・OECD加盟プロセスとの連動
ILOの母性保護条約(第183号)は産後休業の最低基準を14週(98日)と定めていますが、多くのOECD加盟国はこれを大幅に上回る水準を設けています。タイのOECD加盟審査では労働条件・男女平等も評価項目となっており、産休・育休の国際標準への接近が求められています。日本でも育児・介護休業法の段階的な強化が続いてきたように、タイでも同様の流れが加速しています。
2. 現行制度のおさらい
改正の議論を理解するために、現行のタイ労働法における産休・育休・福祉基金の仕組みを確認しておきます。
産前産後休業(産休)
現行LPAでは、女性従業員は出産前後を通じて最大98日間の産前産後休業を取得できます。そのうち45日分は使用者負担、残りは社会保険基金(SSF)から支給されます。なお、流産・死産の場合も一定の休業が認められています。
日本の産前産後休業(産前6週・産後8週=合計98日、双子以上は産前14週)と日数は一致していますが、給付の仕組みが異なります。
育児休業
日本では育児・介護休業法により子が1歳(最長2歳)まで育児休業を取得できますが、タイのLPAには法定の育児休業制度が存在しません。一部の企業が就業規則で任意に設けているにすぎず、男性(父親)の育休に至っては法的根拠がほとんどない状況です。
福祉基金(Labor Welfare Fund)
従業員50名以上の事業所には、従業員代表と使用者代表からなる「労働者福祉委員会(Labor Welfare Committee)」の設置が義務付けられています。同委員会は従業員の福祉向上に関する事項を審議しますが、財政的な基盤や活動内容は事業所によってばらつきが大きいのが実態です。
3. 改正方針の主なポイント
以下は現時点で議論・検討されている内容であり、具体的な条文は確定していません。
① 産休の延長(98日→最大180日案)
最も注目されている改正点が産休の延長です。政府内では最大180日への延長が議論されており、ILO第183号条約が推奨する18週(126日)を大幅に超える水準を目指す案も検討されています。
延長分の費用負担については、使用者負担と社会保険基金(SSF)負担の分担比率の見直しも同時に議論されています。どの程度が使用者コストとなるかは、今後の法案の具体的な内容次第です。
② 育児休業の新設(男性育休を含む)
法定育児休業制度の新設が検討されています。特に男性(父親)の育児休業の義務化は、日本の2022年育休取得促進改正に相当する方向性であり、タイ社会での注目度が高い論点です。取得日数・給付水準については複数の案が議論されており、現時点では「数日〜数十日程度の有給育休」の新設が有力と見られています。
③ 福祉基金の強化・拡充
現行の労働者福祉委員会制度を強化し、企業による福祉基金への財政的拠出を義務化する方向が議論されています。日本の中小企業退職金共済(中退共)に相当する積立型の基金制度の創設も選択肢の一つとして挙げられています。
④ 年次有給休暇・病気休暇の見直し
年次有給休暇(現行:1年勤務後に6日以上)の付与日数の引き上げや、取得しやすい制度設計への改善も議論されています。また、有給病気休暇(現行:年間30日)についても、医師の診断書が不要な期間の見直し等が検討されています。
4. 日系企業への実務的インパクト
① 人件費への影響
産休延長が実現した場合、最も直接的な影響は人件費です。使用者負担分が現行より増加する可能性があり、中小規模の事業所では特に影響が大きくなりえます。一方で、社会保険基金負担分が拡充されれば、使用者の実質的な追加コストは一定程度抑制される可能性もあります。
実務上の留意点:現時点では試算が難しいため、自社の女性従業員比率・年齢構成を踏まえ、複数のシナリオでのコスト試算を準備しておくことが考えられます。
② 就業規則・雇用契約の見直し
育児休業制度が新設された場合、就業規則への明記が必要になります。日本本社の制度との整合性(例:グローバルの育休ポリシーとの比較)を確認し、タイ法の最低基準を下回らない形での就業規則改訂を準備しておくことが考えられます。
また、育休中の代替人員の確保・業務継続計画(BCP的な観点)も、今のうちから検討しておく価値があります。
③ 代替社員・業務分担の設計
産休が現行の98日から大幅に延長された場合、代替要員の確保が現状より難しくなる可能性があります。特に専門職・管理職の長期不在に備え、業務の見える化やOJTによる多能工化を進めておくことが考えられます。
5. 今後のスケジュール・見通し
労働者保護法の改正案は現在、労働省・国家立法議会を中心に関係機関との意見調整が続いています。具体的な施行時期は未確定ですが、2026年中の改正法案提出が視野に入っているとの見方もあります。OECD加盟審査との関係を踏まえると、改正の方向性自体は大きく変わらない可能性が高いと考えられます。
まとめ — 今やるべき3つのこと
① 自社の女性従業員比率と年齢構成を把握し、産休延長のコストシナリオを試算しておく
産休が延長された場合の使用者負担増を、現在の従業員構成に基づいて概算しておきましょう。中小企業では思わぬインパクトになるケースも考えられます。
② 就業規則の「休業・休暇」条項を点検し、改正への対応余地を確認する
現行の就業規則が法定基準のみを規定しているのか、それとも上乗せ規定があるのかを確認し、改正後に「法定を下回る」状態にならないよう準備しておくことが重要です。
③ 育休取得に備えた業務継続体制を整備し始める
法定育休が新設された際に慌てないよう、業務のマニュアル化・引き継ぎ体制の整備を日ごろから進めておくことが考えられます。日本本社のノウハウを活用できる場面でもあります。
これらの対応には、タイ労働法と日本の労務管理の両方に精通した専門家のサポートが有効です。当事務所では、提携先JTJB International Lawyersのタイ人弁護士と連携して対応いたします。
タイの労働法改正動向や、自社の就業規則・雇用契約の見直しについて詳しく知りたい方は、お気軽にお問い合わせください。
本記事はタイの法制度に関する一般的な情報提供を目的としており、タイ法に基づく法的助言を構成するものではありません。具体的な案件については、タイの弁護士資格を有する専門家にご相談ください。当事務所では提携先JTJBのタイ人弁護士と連携して対応いたします。